20200711
今の大インターネット時代において「所属しているクラスター」って情報へのアクセス性とかそれを拡散するかどうかの意思決定に大きな影響を持っているんだなと思った。これは結構難しい。というのも例えばBLMの話とか香港の話とかそういう政治とか社会問題などのちょっと重たい話題に、アクセスできるクラスターにいる、むしろ平均よりも触れることの多いクラスターに所属していると感じて生きているが、じゃあそれを拡散しましょうとなるかというとそこまでではない。これには色々な理由があると思うが、1番大きいのは「自分の実感として何が問題なのか理解できていない」というものな気がする。「一人一人がこうした問題があることを発信していくことが大切です」みたいな主張も見かけるが、これは少しハラスメントめいていると思う。インターネットの使い方はもっと自由であるべきだし、誰もが発信者になる必要はない。TLに流れてくるものを摂取するだけでも立派なインターネット活動である。「無知や無関心なことが問題」と言われることもあるけど、知っていて関心があれば必ず発信者にならなければならないという論理は飛躍していると思う。また、政治や社会問題ってなぜそんなに優遇される話なのか。例えば私はソフトウェアを作ってこれから生きていくつもりなのだが、その文脈における問題はあまり世の中には届いていないと感じることが多い。先日のCOCOAアプリでOSSにコミットすることの難しさとかつらみみたいなものが表面化し、これはそこまで専門的な話でもないと思われるが、身の回りで関心を払っていた人はやはり同じく開発者界隈の人だけであった。これは不平等だからぜひ全員に関心を持ってもらいたいという話では全くなくて、別に興味関心のあることなんて自分で決める時代なので、何を受信して何を発信するかなんてこっちで勝手に決めさせてくれ放っておいてくれ、という話だと思う。